つかず離れずの聴聞の中で

仏教のこと

他団体の批判は極力避けたいところですが、これを書かないと私の心の変遷が分からないと思いますので書きます。
これまで親鸞会で聴聞を続けて、何の疑問もなく、仏法は聴聞に極まるということで、聞いている。
この刹那の命の私たちなのに、まあしかし、周りに信心決定したっぽい人おらんなあ、と思っていました。

20年以上聞いてきて、私が知っている獲信者は親鸞会の新聞に載った2人だけです。お一人はある講師のお母さんで、熱心な聞法者で、各地への聞法はもちろんのこと、ご法話会場の扇風機を分解して部品をひとつひとつ磨いて備える。高森先生を仰いで差し上げるものだからと。突然の病による病床でビデオを擦り切れるまで見て獲信、というご婦人でした・・・私、ドン引き。

かたや、もうお一人はブラジルのお兄さんで、日本語も分からんけど、たった最近親鸞会に入り、高森会長の作成した「なぜ生きる」のDVDをみて、獲信した、というものでした。嘘ではないだろうけど、なんじゃそりゃ・・・と馬鹿らしくなってきました。宿善は人によって、厚い、薄いはあるだろうけど、私の宿善ってどんだけあるのかな、なにやったらいいの?と、しんどくなってきました。

ご法話も因果の道理、二河白道、三願転入とか歎異抄、正信偈と演題は豊富だけれども、振り返れば、念仏を唱えなさいなんてほとんど言われませんでした。

高森会長のご法話については、例えば10、話さないといけないところ、1日目の午後で1か、2ぐらいしか話し終わらず、初めて参詣の方もおられるだろうからと、懇ろにかみ砕いて話してくださるのですが、私たち10年以上聴聞している者の立場になっても話してほしい、今から2500年前お生まれになった~、もうそれ何回も聞いた!いつも尻切れトンボのご法話やん!とイライラしました。
ある時は30分聞くためだけに、往復8時間かけて、自宅から参詣していたこともありました。真夏に小杉駅からスーツで会館まで歩いたこともありました。

そして追い打ちをかけるように、親鸞会が弁当屋を始めました。それ、聞法に関係あります? 親鸞会は建物だけは立派になっていきます。各地に会館を建てたり。その都度ご法謝が募られていました。私は一切しませんでした。なんだか時代に逆行しているなと思いましたので。
それと、信心決定していない者同士で仏法讃嘆しても、仕方ないなと思っていました。崖から落ちそうになっている人を助けるときはまず、自分が安全な所(獲信してから)から引っ張らなければならないと思っていたからです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました